- 2020年5月19日
- 2020年7月12日
ワールドポーターズ前の大きな錨(いかり)はどこが作った?
この錨は(株)アイ・エイチ・アイ・アムテック横浜工場の寄贈によるもので、石川島播磨重工業(株)横浜工場で1971年に建造され中近東から日本へ原油を運搬した大型原油輸送船「高岡丸」(全長316m、幅50m、深さ25.5m、載貨重量215,850K/T)に備え付けられていたものと同型のものです。
この錨は(株)アイ・エイチ・アイ・アムテック横浜工場の寄贈によるもので、石川島播磨重工業(株)横浜工場で1971年に建造され中近東から日本へ原油を運搬した大型原油輸送船「高岡丸」(全長316m、幅50m、深さ25.5m、載貨重量215,850K/T)に備え付けられていたものと同型のものです。
この橋は、明治40年(1907)にアメリカン・ブリッジ・カンパニーで製作され、明治42年(1909)に架設された100フィートの複線トラス橋です。重量機関車の出現により、それまでのイギリス系トラス橋にとってかわり、明治30年代から主流となったアメリカ系トラス橋の遺構として貴重なものです。
ジェームズ・カーチス・ヘップバーン(通称ヘボン)は、米国長老教会から派遣され、一八五九年十月一八日に来日、横浜に居住し、医療と伝道にあたった。やがて、ヘボン塾で勉強していた青年を中心として、教会設立の機運が起こり、宣教師ヘンリー・ルーミスが初代牧師となり、一八名の信徒を以て設立、その名を横浜第一長老公会とし、日本最初の長老教会として誕生した。
明治2年(1869年)、英国人土木技師R.H.ブラントン(RICHARD HENRY BRUNTON 1841〜1901)により架け替えられた吉田橋は、橋長24m、幅員6mの日本最初のトラス鉄橋であり、「鉄の橋」として市民に親しまれるとともに、文明開化のシンボルとして錦絵に描かれるなど大変人気を集めました。現在の高欄は「鉄の橋」をイメージして復元したものです。
安政六年(一八五九)六月二日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより「吉田橋」と呼ばれました。
この大砲は、旧山下居留地90番(現在の横浜市中区山下町90番地)地中から、昭和34年にオランダ製の11ポンド砲とともに出土した帝政・シア製の32ポンド砲です。出土地では、かつてスイスの商社シーベル・ブレンワルト商会(慶応元・1865年創立)が営業していました。
設計者の矢部又吉は横浜生まれでドイツに学んだ建築家で、隣の旧横浜正金銀行本店の設計者妻木頼黄の弟子。ファサード2面を残して機能更新を図った今の建物は、歴史的建造物の保存・再生の一手法を示した先駆的作品である。
安政6年(1859年)に開港場となって以来、横浜は西洋文化の玄関口となりました。馬車道を起点にして全国に拡がったものも数多くあります。ガス灯は、明治5年(1872年)に、高島嘉右衛門の「日本ガス社中」により、馬車道本町通り等に設置、点灯され、これが日本における最初のガス灯となりました。
牛馬飲水槽は大正六年、当時横浜の陸上交通の主力であった牛馬のために神奈川県動物愛護協会の前身である日本人道会と横浜荷馬協会が現在の横浜市磯子区八幡橋際に設けたものです。このほか中区の生糸検査所、西区高島町駅前、久保山のガードそばに設置し牛馬の途中休憩所としました。
嘉永元年(一八四八)オランダから長崎へダゲレオタイプ一式が渡来した弘化二年(一八四五頃)狩野派の青年絵師が、銀板写真に遭遇し、そして絵筆を折り捨て写真術習得の道へ歩み出した。この青年こそ、日本に写真師という職業を確立した日本写真の開祖 下岡蓮杖その人である。