吉田橋

関内と関外の境目だった吉田橋関門跡の案内板

吉田橋

馬車道とイセザキ・モールをつなぐ橋で、地下を首都高速が走っています。

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横浜市地域史跡 吉田橋関門跡

吉田橋関門跡

安政六年(一八五九)六月二日、横浜が開港となって交易場、貿易港として栄えるにしたがい、幕府は、開港場の施設の充実にあたり、陸路である東海道からの横浜路を開設するとともに、当時、伊勢山下から都橋付近まで入海であったことから木橋を架け、その後、本橋が吉田新田から架橋されたことより「吉田橋」と呼ばれました。

吉田橋が設置されてからは、当地は交通の中心地となり、その治安を図るため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。

関門は、当初港町側に設けられましたが、文久四年(一八六四)二月に吉田町側に移設されました。

関内、関外という。呼び名はこのとき以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、その関門は明治四年に廃止されました。

平成二十四年三月
横市教育委員会

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吉田橋
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