
神奈川宿は巡りましたが、これからは保土ケ谷宿を攻めて行こうと思います!
初回は本陣跡。保土ヶ谷の大きな三差路(細道を入れたら四差路?)に位置する屋敷です。
ぱっと見は人が住んでいなくボロボロになった家みたいな雰囲気ですが、実は参勤交代で大名が宿泊する立派な屋敷でした。
窓も錆びて年季が入っています。
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歴史の道 本陣跡
慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ケ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。
保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。
同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。
明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。
保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣がありました。
東海道分間延絵図に描かれた保土ヶ谷宿の本陣・脇本陣
東京国立博物館所蔵
保土ヶ谷本陣復元想像図<金子寿彦氏作成>
平成15年3月 保土ヶ谷区役所
保土ヶ谷本陣跡(1601〜1870)
江戸時代に幕府化諸大名に参勤交代をさせるため東海道五十三次の宿場毎に本陣をおいたもの
横浜開港東京遷都の頃までありました
1965 横浜市長 飛鳥田一雄記
まだそんなに汚れていないですが、ビニールが剥がれてしまった案内ポール。