台場公園

案内板が大量にあった神奈川台場跡の案内板【神奈川宿歴史の道その30】

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台場公園
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神奈川台場跡

神奈川台場跡案内板

安政六年(一八五九年)五月、幕府は伊豫松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。

当時の台場は総面積二万六千余平方メートル(約八千坪)の海に突き出た扇形で、約七万両の費用と工期約一年を要し、萬延元年(一八六〇年)六月竣工した。

明治三十二年二月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正十年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。

地下に眠る神奈川台場

地下に眠る神奈川台場

神奈川県台場は、江戸時代末、横浜開港の翌年(1860年)に完成した、海上警備のための砲台です。

沖合に造られた人工の「島に14基の大砲が据え付けられ、東西2本の取渡り道で陸と結ばれていました。

現在は大部分が地下に埋もれています。

西取渡りの発掘調査

西取渡り道の発掘調査

「神奈川台場公園」の地下には、西取渡り道が埋まっています。

平成20年(2008年)、横浜開港150周年を契機に発掘調査を行いました。

調査その結果、公園内の西取渡り道の位置の状態、構造などが明らかになったほか、強い「地震などの自然災害によると考えられる破壊を受けていることもわかりました。

水路に面した石垣の検出状況

明治時代の地図や絵図等では円弧状に描かれているが、実際は直線上であった。

船溜り側の破壊状況①

斜面上に破壊。一部を掘って調べた結果、平坦な基盤(土丹)の上に砂が積まれていると判明。

船溜り側の破壊状況②

基盤(土丹)の上に黄褐色土が積まれていた。斜面は自然に崩落した模様。

地図と絵に見る神奈川台場の歴史

地図と絵に見る神奈川台場の歴史案内板

監修:横浜市立大学名誉教授 加藤祐三
横浜開港資料館 西川武臣

神奈川台場の歴史

横浜の開港により、開港場の付属施設として神奈川台場が築造されました。

安政6年(1859年)5月、幕府が伊予松山藩に砲台の構築を命じ、勝海舟が設計にあたりました。

約7万両の費用と約1年の工期を要し、万延元年(1860年)6月に竣工した当時の台場は、総面積約2万6千㎡(約8千坪)で、海に突き出た扇形をしていました。

明治32年(1899年)2月に廃止されるまで礼砲や祝砲を発射する施設として使われていましたが、大正10年頃から埋め立てられ、いま地上部には石垣の一部だけが残っています。

神奈川台場関係年表(月日は和暦)

年号月日事項
弘化2(1845)2-アメリカ国船メルカドル号が浦質入港を求める。
この年、幕府が三浦彩館時に台場を新設。
3(1846)閏5・27ピッドル艦隊が浦賀に入港、通商を求める。
6・28鉄倉沖にデンマーク船発見。
嘉永2(1849)1-浦賀奉行が三浦彩観音・十石・東山・表島台場を視察。
閏4・8イギリス船マリーナ号が東京湾に侵入。
5(1852)4・19幕府が三浦観音崎に新造した台場を川越藩に引き渡す。
6(1853)6・3ペリーが浦賢沖に来航。
6・8ベリーク里浜に上陸、アメリカ合衆国大統領の国書を感府に返す。
7・18ロシア使館プチャーチンが長崎に来航。
8・24幕府が品川台場の造に着手。
11・1幕府が徳川斉昭の主張を入れ「海防の大号令」を発令。
7(1854)1・16ペリー艦隊が小紫沖に錨をおろす。
3・3日米和親条約結。
安政3(1856)7・21アメリカ総領事ハリスが下田に来航。
4・28幕府が松山藩に細奈川宿周辺地域の警備を命じる。
この年、松山藩が神奈川宿の並木町に台場を築造する。
この台場は神奈川台場が完成した頃に廃止された。
5(1858)6・19日米修好通商条約締結。
その後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと同様の条約を締結。
12・13松山藩が幕府に神奈川宿の猟師町のどこに台場(神奈川台場)を
築造すべきかをうかがう文書を提出する。
6(1859)5-神奈川台場仕様書と入用高内訳書が作成される。
6・2横浜が開港する。
7-神奈川台場の工事が始まる。
万延1(1860)6・19神奈川台場が竣工。松山藩主松平勝成が視察する。
文久2(1861)8・21生麦村でイギリス人が薩摩藩の藩士に殺害される(生麦事件)。
慶応2(1866)7-松山藩が梅奈川台場の整備を免除される。
その後、台場の警備は慶応3年1月から古河藩が担当する。
4(1868)1・3戊辰戦争始まる。
4・24神奈川台場が新政府に引き渡される。
9・22天皇誕生日を祝って神奈川台場から初砲を発射する。
明治4(1871)9-神奈川台が東海鎮守府(海軍省)の管轄となり、
明治17年(1884年)12月、横須賀鎮守府の管轄に移る。
32(1899)神奈川台場が廃止された。

五雲亭貞秀画「増補再刻御開港横浜之全図」(部分)

増補再刻御開港横浜之全図

慶応元年(1865年)〜同2年(1866年)頃刊行(横浜開港資料館蔵)
右手の海岸部に神奈川台場が描かれている。絵図下の左手から右に伸びる道が東海道。上に描かれた市街地が開港場である。開港場の前面には、後に「象の鼻」と呼ばれるようになる波止場が描かれている。

「亜米利加人上陸之図」

亜米利加人上陸之図

(横浜開港資料館蔵)
弘化3年(1846年)に東京湾に来航したアメリカ合衆国のビッドル艦隊の船。この頃から東京湾の各地に台場が築造されるようになった。

「黒船来航画巻」

黒船来航画巻

(横浜開港資料館蔵)
嘉永7年(1854年)に横浜に来航し、日米和親条約を締結したペリー艦隊の旗艦ポーハタン号。

「黒船来航図絵巻」

黒船来航図絵巻

(横浜開港資料館)
ペリー艦隊の来航をきっかけに嘉永6年(1853年)から築造が始まった。品川台場の配置計画図。

3代広重画「横浜往返鉄道蒸気車ヨリ海上之図」(部分)

横浜往返鉄道蒸気車ヨリ海上之図

(横浜開港資料館)
明治5年(1872年)に開通した日本最初の鉄道は、神奈川台場の近くを通った。右端の山が山手の丘。台場は左手の方角にあたる。

「神奈川台場図」

神奈川台場図

(横浜開港資料館蔵)
絵図下の家並みは神奈川宿。台場には大砲や番所の位置が示されている。

「御開港横浜正景」

御開港横浜正景

(横浜開港資料館蔵)
文久3年(1863年)頃の絵図。デフォルメされており左下に神奈川台場を配置、中央の開港場を支えるような図柄である。

「改正銅版横浜地図」

改正銅版横浜地図

(横浜開港資料館蔵)
明治13年(1880年)に刊行された。中央の市街地が開港場。横浜=新橋間の鉄道が開通。その線路近く(右下)に「炮発場」とあるのが神奈川台場。

「明治30年代の神奈川台場」

明治30年代の神奈川台場

(横浜開港資料館蔵)
台場の横の部分の埋め立てが始まっている。

「最新横浜市全図」

最新横浜市全図

(横浜開港資料館蔵)
大正2年(1913年)に刊行された。かつて神奈川宿があった場所の海岸部の埋め立てが進み台場周辺地域は大きく変わった。しかし、台場そのものの形は残されている。

「神奈川地図」

神奈川地図

(横浜開港資料館蔵)
昭和5年(1930年)に刊行された。中央、台場があった場所の上に鉄道が敷設されている。

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