旧ヘボン博士邸とヘボン博士についてのまとめ

横浜をブラブラしていると、至るところにヘボン博士の名前が出てきます。
たぶんこのブログ内で一番登場する方なんじゃないでしょうか。

ヘボン博士邸は現在の横浜地方合同庁舎になっています。
ヘボン博士の情報が散らばっているので、今回は総まとめとして情報整理もしていきたいと思います。

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ヘボン博士邸跡

開港とともに来日した宣教師の1人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2年(1862)冬、横浜居留地39番に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。
聖書のほんやく、和英辞典のへんさん、医術の普及などがそれである。
昭和24年(1949)10月記念碑が邸跡に建てられた。

ヘボン博士は一八五九年十月十八日北米合衆國より渡來
横濱居留地最初の居住者の一人にしてこの地に施療傳道所を設け欧米醫術を導入する傍ら
ヘボン式ローマ字による和英語林集成の編纂
新旧譯聖書の飜譯など日本文化の開拓に力を盡せり
なほ指路教會及び明治學院の創立者なり

ヘボン博士とは

本名はジェームス・カーティス・ヘボン。1815年3月13日アメリカ合衆国ペンシルベニア州ミルトン生まれのアメリカ人です。
1911年9月21日アメリカ合衆国ニュージャージー州イーストオレンジで96歳のときに亡くなられました。

米国長老派教会の医療伝道宣教師、医師で1859年10月17日に妻のクララと共に横浜に到着し、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の成仏寺の本堂に住むことになりました。
ヘボンの後に来た宣教師のサミュエル・ロビンス・ブラウンは庫裡に住み、ヘボンと共に日本語の学習と聖書の和訳をおこないました。

成仏寺外観

成仏寺はお寺の多い、京急東神奈川駅の第一京浜側にあります。

医師であるヘボンは、成仏寺から歩いて5分程にある宗興寺を1861年4月〜9月まで施療所として使用しました。
多数の患者を無料で診察し、入院患者もあったそうです。

宗興寺外観

宗興寺にはヘボンのレリーフも飾られています。

生麦事件とヘボン博士

1860年、商人のフランシス・ホールと医師のデュアン・B・シモンズと共に大名行列を見学するも、ヘボンとホールはひざまずかず、危ない空気になったが、無事ことなきを得ました。
2年後の1862年には生麦事件が起こり、深手を負ったマーシャルとクラークはアメリカ領事館として使われていた本覺寺へ逃げ込み、ヘボン博士の治療を受けました。

ヘボン塾と和英語林集成

1862年の暮れに横浜居留地の宣教師館に引っ越したヘボンは、翌年の1863年にヘボン塾を開きました。
ヘボン塾ではヘボンが医学を教え、妻のクララが英語を教えていました。

1863年に実業家の岸田吟香の目を治療し、これが縁で手掛けていた和英語林集成の制作を岸田吟香も手伝うことになります。
1867年には日本最初の和英辞典「和英語林集成」を出版しました。

横浜第一長老公会を建てる

1874年にヘンリー・ルーミスを牧師として現在の指路教会(横浜第一長老公会)を建てます。

指路教会

その後も活躍

1880年には新約聖書の和訳を完成させ、1887年には私財を投じて東京都港区白金の地に明治学院を設立し、明治学院初代総理に就任しました。
ヘボンの弟子は優れた人材が多く、横浜の近代医学に大きく貢献したことから、その功績をたたえ横浜市立大学医学部にはヘボンホールという講堂があります。

ヘボン式文字とは?

ヘボン博士というと決まって出てくるヘボン式文字。一体何かと言うと、普段の生活に溶け込んでいるいわゆるローマ字読みのことです。
「横浜好き」→「yokohamasuki」ということ。
あまりに普通なことですが、これが無かったら外国人旅行者などに地名を伝えるのが大変ですね。

パスポートの名前表示もヘボン式文字でと指定されています。

ヘボン博士に関する記事

宗興寺とヘボン博士の案内板【神奈川宿歴史の道その17】
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