象の鼻パークをウロウロしていると、かなりの数の案内板を発見できました。
どれも横浜の歴史を多く語っていて、このエリアだけでかなり横浜通になれるんではないでしょうか。
横浜の発展の流れを知るにはうってつけの地ですね。
今回はかなりのボリュームです。
象の鼻防波堤
安政6年(1859)の横浜開港に伴い、幕府は開港場の中央部に波止場を建設し、その中心地点に運上所(税関)を設置しました。
この波止場は、2本の突堤が岸からまっすぐに海に向かって突き出た簡素なもので、東側の突堤は外国貨物の、西側の突堤は国内貨物の積卸しに使用されました。
突堤には外国の大きな船舶が直接横付けできないため、沖に停泊している船舶から小船に貨物を移し替えて運んできましたが、強風による高波の影響で小船の荷役作業はしばしば妨げられました。
慶応2年(1866)の横浜大火により被害を受けた税関施設などの復興と共に、慶応3年(1867)、幕府は東側の突堤を延長して象の鼻のように弓なりになった防波堤を築造しました。
これが「象の鼻」のはじまりで、この防波堤によって囲まれた水域で行う荷役作業は一気に効率が上がりました。
象の鼻パークの整備工事においては、残されている写真や工事記録などを参考にして、全体の姿が明治中期頃のものになるように復元工事を行いました。
工事中に、大正12年(1923)の関東大地震で沈下したと思われる象の鼻防波堤の石積みと舗装の石材が発見されたため、一部をそのままの形で保存・展示するとともに、復元した石積みにも利用しています。
昭和40年代の象の鼻防波堤
「横浜港全景」(部分) 横浜開港資料館所蔵
関東大震災で沈下した創建当時の象の鼻防波堤の石積みと舗装の石材
象の鼻防波堤復元整備断面図(発見された石を石積みに利用した部分)
象の鼻地区の変遷
嘉永6年(1853)、開国を求めるアメリカ大統領の国書を携えたペリーの率いる黒船が浦賀に来航しました。
安政元年(1854)再度の来航の際に、ペリー一行は横浜に上陸し、開国に向けての条約締結交渉が行われました。
戸数約百戸の半農半漁の村であった横浜村が、歴史の表舞台に初めて登場したのはこの時です。
当時の横浜村は、大岡川の河口部に突き出た砂州に位置していました。
ペリーが上陸した地点はこの砂州のほぼ中間で、現在の横浜開港資料館の前面のあたりです。
幕府はここに横浜応接所を設け、ペリー一行を迎えました。
この地で日米和親条約が締結され、後に安政5年(1858)のアメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの5カ国との通商条約の締結によって、わが国の200年余り続いた鎖国政策に終止符が打たれたのです。
条約によって神奈川の開港が決められましたが、幕府はにぎやかな東海道の宿場であった神奈川宿の近くに外国人が居留することを避けるために、神奈川の一部であるとして横浜での開きを進めました。
開港に伴い波止場と神奈川運上所の建設、その背後の外国人居留地と日本人街の整備が行われました。波止場の位置は、ペリーが上陸した地点とほぼ重なっています。
「ペリー艦隊日本遠征記」付図
横浜開港資料館所蔵
安政6年(1859)の開港以来、横浜は開港場として急速に発展し、慶応2年(1866)の横浜大火を契機に本格的な市街地整備が行われました。
彼我公園(現在の横浜公園)や中央大通り(現在の日本大通り)などの都市の骨格が整備され、鉄橋やガス灯、鉄道などの近代技術が導入されました。
この時期、市街地は関内地区をはじめ、関外、山手地区に広がりました。
貿易量の増大に伴い、現在の山下公園中央付近に新たに波止場が造られ、象の鼻地区の波止場では2本の突堤が直線状から水域を囲む形に変更されましたが、港としての機能はまだ脆弱でした。
鉄桟橋(現在の大さん橋)が整備される明治時代中期までの間、大型船が直接接岸することができる港の施設はなく、沖合いに停泊した本船とこれらの波止場の間を、艀などを使って、人や荷物を運んでいました。
「2万分の1迅速測図:横浜区」
参謀本部測量課
明治10年代後半になると、横浜港の貿易量は急激に増加し、従来の港湾施設では手狭になり、新たな施設の建設が急務になりました。
様々な計画案が提案されましたが、最終的には英国人技師であるパーマーの案が採用され、明治22年(1889)から横浜港の築港計画がスタートしました。
この築港計画にもとづく横浜港修築第1期工事により、横浜港の防波堤(現在の内防波堤)が築造され、鉄桟橋(現在の大さん橋)や横浜船渠(造船所・現在のみなとみらい21地区内)の建設、港内の浚渫などが行われました。
これにより横浜港は船舶停泊地150万坪の規模を持つ欧米に劣らない港に成長しました。
さらに、第2期工事により、新港ふ頭の整備、倉庫や上屋の建設、鉄道などの海陸連絡施設の整備を進め、大正6年(1917)名実ともに近代港湾となりました。
このような港の整備に伴って、港の主役は波止場から、大型船が直接接岸できる様、ふ頭へと交代し、象の鼻地区の水域は、物揚場、船だまりとしての役割を担うことになりました。
この頃から、京浜工業地帯の建設が進められ、港は大きく拡大していきました。
「2万分の1地形図:横浜」
陸地測量部
大正12年(1923)の関東大地震により、横浜は大きな被害を受けました。
揺れと火災により、中心市街地の9割以上が被災し、港湾施設も、桟橋とふ頭の係船岸壁総延長1,100間(約1,980m)のうち、約8割が倒壊、大さん橋をはじめ、倉庫や上屋の大半が倒壊という大きな被害を受けました。
震災復興の名の下に、基盤施設の整備が進められました。
港湾施設については、内務省横浜土木出張所により、被災した岸壁、護岸、倉庫や上屋などの復興工事が急ピッチで行われ、わずか2年後の大正14年(1925)には概ね完了しました。
震災復興事業の一環として、震災により生じたレンガ、焼土などを処理するため埋立整地された土地において整備した山下公園では、昭和10年(1935)に復興記念横浜大博覧会が開催されました。
横浜市は昭和2年(1927)に独自の政策として「大横浜計画」を掲げ、三大政策として「横浜港の拡充」「臨海工業地帯の建設」「横浜市域の拡大」を遂行しました。
港では、外防波堤(現在のベイブリッジ付近)や瑞穂ふ頭の建設、東京方面への京浜運河の建設などが行われ、現在に至る横浜港の骨格が形づくられました。
「2万分の1地形図:横浜東部」
国土地理院
第二次世界大戦による壊滅的な被害、その後の占領軍による接収によって、戦後の横浜港はいわば無からの出発を余儀なくされました。
そうした中で、昭和25年(1950)の「港湾法」の施行によって、港湾の管理運営は地方自治体である横浜市に委ねられることになり、さらに「横浜国際港都建設法」により、国策として横浜の港都建設が進められることになりました。
その後の高度経済成長は、港にも大きな変化をもたらしました。
京浜臨海部や根岸湾などに大規模な工業港が整備されました。
更に、コンテナ化などの物流構造の変化によって、港の物流機能は、都心部の旧来のふ頭から外縁部の本牧、大黒さらには南本牧などの大規模なコンテナふ頭にその中心が移りました。
その結果、みなとみらい21地区など旧来の港であった都心臨海部は、市民や観光客が多数訪れる水辺の空間として利用されるようになりました。
開港150周年を契機に、象の鼻地区もその一部が象の鼻パークとして生まれ変わりました。
こうした劇的な変化の中でも、象の鼻地区は開港当初からの変わらぬ水域を囲んで、横浜の歴史と未来を結ぶ象徴的な空間として存在し続けています。
「2万分の1地形図:横浜東部」
国土地理院
開港場整備期
安政6年(1859)〜慶応3年(1867)
「横浜絵図面」(部分)クリペ
横浜開港資料館所蔵
港の風景
直線状の2本の突堤が整備され、東側が東波止場、西側が西波止場と呼ばれていました。
背後には、運上所が設置され、貿易や外交が始まりました。
- 安政6年(1859)
- ジャーディン・マセソン商会、デント商会などが進出
- 万延元年(1860)
- 居留地の整備が進む
- 文久2年(1862)
- 海岸通りが整備される
- 慶応3年(1867)
- 馬車道が整備される
主な人物や船の往来
- 安政6年(1859)
- 宣教師J・C・ヘボンが来日
- 文久元年(1861)
- 幕府の遣欧使節(福沢諭吉など)が出発
- 文久元年(1861)
- 伊藤博文が英国留学に出発
- 慶応元年(1865)
- 考古学者H・シュリーマンが来日
- 慶応3年(1867)
- 徳川昭武がパリ万博参加のため出発
文明開化期
明治元年(1868)〜明治21年(1888)
「Plan of the Settlement of YOKOHAMA」(部分)
神奈川県図書館所蔵
港の風景
直線状の突堤が湾曲した形に延長され、水域を囲む象の鼻防波堤の原型がつくられました。
この防波堤には街灯が設置され、散策に絶好のプロムナードであったと記されています(『ファー・イースト』誌、明治7年)。
- 明治3年(1870)
- 中央大通り(現在の日本大通り)が整備される
- 明治9年(1876)
- 彼我公園(現在の横浜公園)が整備される
主な人物や船の往来
- 明治4年(1871)
- 岩倉使節団が出発
- 明治7年(1874)
- 教育家新島襄がアメリカから帰国
- 明治9年(1876)
- 明治天皇が東北巡幸から明治丸で帰着
- 明治9年(1876)
- 実業家エミール・ギメが来日
- 明治15年(1882)
- 画家ジョルジュ・ビゴーが来日
- 明治17年(1884)
- 森鴎外がドイツ留学に出発
港湾整備期
明治22年(1889)〜明治35年(1902)
「横浜築港誌 第八図」
横浜開港資料館所蔵
港の風景
明治22年(1889)からは横浜港修築第1期工事が着工され、象の鼻防波堤の背後には、鉄桟橋(大さん橋の前身)が整備され、大型船が直接接岸できるようになりました。
その基部には赤煉瓦造の税関監視部の建物などが建設され、一帯は輸出入貨物を取扱う税関施設として利用されたことから、活気溢れる港となりました。
- 明治22年(1889)
- 市町村制施行に伴い、横浜市となる
主な人物と船の往来
- 明治23年(1890)
- 作家ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が来日
- 明治28年(1895)
- 鉄桟橋の第一船として英船グレナグル号が入港
- 明治29年(1896)
- 欧州定期航路の第一船として土佐丸が出航
- 明治33年(1900)
- 夏目漱石がドイツ郵船ブロイセン号で英国留学に出発
港湾拡大期
明治36年(1903)〜大正11年(1922)
「横浜税関設備図」(部分)営繕管財局繕事業年報
横浜開港資料館所蔵
港の風景
地区西側の埋立てが進み、税関施設として多数の上屋や倉庫が整備されました。
水域には多くの艀が係留されて、荷役活動が展開されていました。また、鉄桟橋(大さん橋の前身)が客船ターミナルとして改修されました。
- 明治36年(1903)
- 第4代横浜市長が港湾設備の整備促進などを盛り込んだ「横浜市今後の施設について」を発表
- 明治42年(1909)
- 開港50年記念祭、横浜市歌の制定
- 大正6年(1917)
- 新港ふ頭の整備が完了し、現在に残る赤レンガ倉庫などが建設される
- 大正6年(1917)
- 開港記念横浜会館(現在の横浜市開港記念会館:ジャックの塔)完成
主な人物や船の往来
- 明治41年(1908)
- 第1回ブラジル移民が出航
- 大正4年(1915)
- 野口英世が日本郵船横浜丸で帰着
震災復興期〜戦災復興期
大正12年(1923)〜昭和35年(1960)
「横浜税関設備図」(部分)営繕管財局繕事業年報
横浜開港資料館所蔵
港の風景
関東大地震の被害を受けた象の鼻防波堤はやや直線的な形状に再整備され、地区内には上屋や倉庫、一連のオフィスビルが建設され、港の風景は大きく変わりました。
第2次世界大戦後、占領軍により横浜の港湾施設は90%が接収されました。
昭和27年(1952)には大さん橋が接収解除され、横浜港の本格的な復興が始まりました。
- 昭和3年(1928)
- 神奈川県庁本庁舎(キングの塔)完成
- 昭和9年(1934)
- 横浜税関(クイーンの塔)完成、ジャックの塔とともに港の三塔として親しまれる
主な人物や船の往来
- 昭和5年(1930)
- 氷川丸がシアトルへ処女航海
- 昭和7年(1932)
- 喜劇王チャールズ・チャップリンが氷川丸で帰国
- 昭和12年(1937)
- 社会福祉事業家ヘレン・ケラーが来日
- 昭和35年(1960)
- 氷川丸がシアトルへ最終航海
(翌年から山下公園地先で一般公開)
都市成長期〜現在
昭和36年(1961)〜現在まで
「2500分の1地形図」
横浜市
港の風景
昭和30年代半ばまでは、象の鼻地区には倉庫が立地し、水域には艀が係留されて、典型的な港の荷役風景がみられました。
その後港の物流機能が外縁部のコンテナふ頭に移行すると、地区は船だまりとして利用されるようになりました。
象の鼻パークとして再整備された後も、貴重な「船のある風景」が引き継がれています。
主な人物や船の往来
- 昭和40年(1965)
- 新港ふ頭と山下ふ頭を結ぶ貨物線として山下臨港線が整備される(現在はプロムナードとして活用中)
- 昭和50年(1975)
- クイーン・エリザベス2号が初入港
- 平成3年(1991)
- クルーズ船飛鳥が初入港
- 平成18年(2006)
- クルーズ船飛鳥Ⅱが初入港
「西改横浜風景」(部分)五雲亭貞秀
横浜開港資料館所蔵
「横浜海岸通之図」(部分)三代歌川広重
横浜開港資料館所蔵
「横浜桟橋風景」(部分)
横浜開港資料館所蔵
「横浜税関新設備鳥瞰図」(部分)
横浜開港資料館所蔵
「(横浜港)税関庁舎高塔より見たる大桟橋の美景」(部分)
横浜みなと博物館所蔵
「大桟橋空撮」(部分)
横浜みなと博物館所蔵
横浜税関(神奈川運上所)
安政6年(1859)、幕府は開港のために神奈川奉行所を設けました。
その下で、通関事務のほか、船の入出港手続、洋銀両替、各国領事との交渉や違法行為の取締りなど幅広い業務を取り扱ったのが、神奈川運上所でした。
運上所の庁舎は波止場の中央正面に建てられていました。
明治4年(1871)には運上所業務のうち通関事務などが大蔵省の所管とされ、明治5年(1872)には全国の運上所の名称が「税関」に統一されました。
明治6年(1873)、「横浜税関」となってからの初代本庁舎が初代運上所の建屋があった位置よりやや海側に石造3階建てで建設され、明治16年(1883)にはこの庁舎は神奈川県に譲渡されました。
明治18年(1885)になると、中央に塔を配した煉瓦造2階建の2代目本庁舎が建設されました。
大正12年(1923)、関東大地震により横浜港の港湾施設は壊滅的な被害を受け、昭和9年(1934)に震災の復興事業の一つとして建設されたのが現在の3代目本庁舎です。
この庁舎にそびえる高さ51mのエキゾチックな塔は一般に「クイーンの塔」と呼ばれ、今も広く親しまれています。
初代横浜税関本庁舎「横浜税関」
横浜開港資料館所蔵
2代目横浜税関本庁舎「横浜税関庁舎」
横浜開港資料館所蔵
3代目横浜税関本庁舎「横浜税関」
横浜都市発展記念館所蔵
歴代の横浜税関本庁舎の位置図
「海の日」の由来
明治9年(1876)明治天皇が東北巡幸の帰途、船で青森を出発し、函館を経由、7月20日に横浜に帰着しました。
この航海には、岩倉具視、木戸孝允などの明治の元勲160人余が同行していました。
「横浜毎日新聞(明治9年7月22日号)」の記事には、20日午後7時30分頃相州金田沖(現在の横須賀市金田湾沖)を航行、その後艀に乗り換えて午後10時に大波止場(現在の象の鼻地区)に上陸したと記されています。
使用された船は「明治丸」。明治7年(1874)英国グラスゴーの造船所で造られ、翌年横浜に回航された汽帆船で、就航当初から天皇の御乗船(ロイヤルヨット)としても利用されていました。
現在は復元整備され、重要文化財として東京海洋大学構内に保存されています。
「海の記念日」は、この7月20日にちなんで昭和16年(1941)に制定されました。
国民の祝日である「海の日」は、平成8年(1996)「海の記念日」を踏襲し「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」ことを目的に制定されました。
その後平成15年(2003)の祝日法改正により、7月第3月曜日が「海の日」となりました。
明治9年頃の象の鼻地区の風景「イギリス波止場復元模型」
横浜市歴史博物館所蔵
「横浜毎日新聞(明治9年7月22日号)」
復元整備された明治丸
東京海洋大学所蔵
横浜税関遺構
鉄軌道と転車台
明治33年(1900)に発行された「横浜税関一覧」の付図には、横浜税関の上屋や倉庫の背後に、縦横に走る鉄軌道(線路)やその交差部に設置された転車台(ターンテーブル)が描かれています。
右図に示されているのが象の鼻パークの整備工事中に発見された4連の転車台です。
これらの鉄軌道や転車台は概ね明治20年代後半に整備されました。
明治40年代の写真(右下)には、鉄桟橋(現在の大さん橋)方面に向かって敷かれた鉄軌道、転車台、鉄軌道の上を走る台車状の車両が写っています。
鉄軌道の幅員は1.06mあり、わが国の一般的な鉄道の車軸幅と同じです。
また、転車台は、鉄部の直径が約2.5mありました。
この大きさでは回転できる車両の規模も限られることから、発見された鉄軌道は敷地内で荷役作業を行うために設けられたものであると考えられます。
当時の工事記録によれば、当初は、鉄桟橋からの鉄軌道は税関敷地内を通って海岸沿いに大岡川河口部に至り、横浜停車場(初代の横浜駅、現在の桜木町駅)に連絡する計画であったようです。
明治30年代の横浜税関施設「横浜税関一覧」付図
横浜都市発展記念館所蔵
発見された鉄軌道と転車台
明治40年代の写真「横浜港全景」(部分)
横浜開港資料館所蔵
横浜港港湾労働者供養塔
横浜開港百五十周年の今、あらためてミナトの仕事に刻苦奮励、人生のすべてを捧げた多くの先輩たちとその家族の皆さまに、心の底から御礼を申し上げます。
二〇〇九年六月
ヨコハマ港湾人代表 横浜港運協会会長
藤木 幸夫
〆はハマのドンこと藤木幸夫さんでした。
もうこの方は凄い人で色々やられている実業家なのですが、Fヨコの横浜エフエム放送株式会社の代表取締役社長と株式会社横浜スタジアムの取締役会長もされています。
横浜で生きているだけでお世話になっている感じです。
編集後記
象の鼻は今までにないくらいボリューミーな情報がある場所でした。
横浜の歴史を語る上での名所がどんどん出てきましたね。
今回、特に驚いたのが港を使用したのが、教科書に出てくるような有名な方ばかりです。
あらためて横浜の凄みを感じました。
この日は珍しく飛行船が飛んでいました。
そういえば子供の頃はよく飛行船を見たのですが、最近は出会える方がレアですね。
飛行船を見ると魔女の宅急便を思い出してしまうのは管理人だけでしょうか?ジブリ作品で一番好きです。