横浜本牧の歴史本牧十二天 本牧人の愛を感じる案内板

横浜愛を持った人は横浜に多いですが、たぶん本牧の人は横浜よりも本牧愛が強いんじゃないかな?と思ってしまうくらい、本牧の歴史が書いてある案内板を見つけました。

本牧といえばアメ車!なイメージの管理人です。最近一緒に仕事をしている東京在住の人は、アメ車が好きでそろそろ本牧へ引っ越そうかなと言っていたので、たぶんみんなそんなイメージ。
ところが、本牧通りを走っていると、わりと綺麗な静かな街なんですよね。

本牧市民公園運動広場を目指してチャリを漕いでいたら、とんでもないボリュームの案内板。かなりの物量で記事にするのをずっと躊躇っていました。

目次
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本牧十二天の樹木


本牧十二天の森は、昔はクロマツが中心でしたが、現在はタブノキが多く見られます。

クロマツは「江戸名所図会」によれば「本牧の塙にあり、(中略)巌頭数株の松樹鬱蒼として栄茂せり」と記され、以前にあった十二天社にいたる松並木もふくめて本牧十二天の風光明媚な景観を形づくっていたようです。

本牧の並木道

クロマツ(マツ科)乾燥と潮に強く海岸沿いの林で多く見られます。
横浜港資料館所蔵

横浜本牧ヨリウミヲ望ム

横浜港資料館所蔵

本牧十二天の歴史

本牧十二天緑地がある本牧の地は、鎌倉時代は「平子の郷」小田原北条氏の時代には「本牧郷」の一部でした。やがて江戸期に入ると本牧本郷村と呼ばれました。

当時は外国貿易のお金の代わりになるほど大切にされた「いりこ」の生産と内湾を航行する廻船の湊としてにぎわっていた、人口二千人ほどの漁村でした。

「いりこ」とは、ナマコのはらわたを取り除きゆでて干したものです。

内湾沿岸町村絵図(部分)

内湾(東京湾)沿岸の村々を記した絵図。北にあたる左より江戸から横浜へ南下するように描かれている。中央部に本牧村が見られる。

明治6(1769)年 国文学研究資料館所蔵

加奈川横浜二十八景之内

「この所は十二天の社 同山に登り海洋を見渡すと向かって東の方に上総かのふ山 あわせて木更津の方にまで ひとめに見るの景色なり」

五雲亭貞秀 万延元(1860)年5月
国立国会図書館所蔵

東海道五拾三次之内 神奈川台之景

「(略)海辺に出崎あり本牧十二天の森といふ稲毛弁天社あり沖を本牧といふ」

歌川広重 天保4(1833)年
神奈川県立歴史博物館所蔵

明治14(1881)年

横浜実測図(5千分の1)を縮小
本牧十二天

縮尺1:6,000
横浜市中央図書館所蔵

明治39(1906)年

地形図(2万分の1)を拡大
本牧十二天

縮尺1:6,000
国土地理院所蔵

大正11(1922)年

地形図(1万分の1)を拡大
本牧十二天

縮尺1:6,000
国土地理院所蔵

昭和6年(1931年)

地形図(1万分の1)を拡大したもの
本牧十二天

縮尺1:6,000
国土地理院所蔵

昭和25・27(1950・1952)年

横浜市地形図(3千分の1)を縮小
本牧十二天
本牧神社

縮尺1:6,000
横浜市中央図書館所蔵

平成5(1993)年

横浜市地形図(2.5千分の1)を縮小
本牧十二天
本牧神社
本牧神社建設中

縮尺1:6,000
横浜市中央図書館所蔵

名所図から [江戸後期〜明治後期]

本牧本郷村には、通称「本牧六ヶ村」と言われた「間門、牛込、原、宮原、箕輪、台」の六つの集落があり、「十二天社」は村の惣鎮守であったことが古い歴史書に記されています。

伊能忠敬が日本国中を測量し回り終えた江戸後期には、人々の遊覧が盛んになり、名所図(絵)に十二天の地がたびたび登場し、それは明治まで続きました。

本牧神社

風俗画報 明治35(1902)年
横浜中央図書館所蔵

本牧塙十二天社

江戸名所図会 天保7(1836)年
横浜市中央図書館所蔵

本牧吾妻権現宮

江戸名所図会 天保7(1836)年
横浜市中央図書館所蔵

本牧の岬より上総国木更津を見渡すの図なり

本牧村より浦川口上総の加納山遠見の景色なり

横浜土産 五雲亭貞秀 万延元(1860)年
横浜開港資料館所蔵

本牧待月

開港期からの横浜八景は、江戸期の庭箱といえる静的な八景に対し動的な八景といわれている。

横浜八景詩画 明治3(1870)年
横浜市中央図書館所蔵

本牧晴嵐

春の美しい十二天の風景を案内する漢詩、和歌、俳句が添えられている。

横浜地名案内 明治8(1875)年
横浜市中央図書館所蔵

大日本沿海輿地全図(伊能大図部分)

伊能忠敬は、今から200年前の江戸時代に、初めて実測による正確な日本地図を完成させた人です。

第93図 武蔵・相模
国立国会図書館所蔵

黒船来航と横浜開港 [江戸後期〜明治初期]

嘉永六(1853)年の黒船の来航と、それに続く安政六(1859)年の横浜開港は、本牧にも大きな変化をもたらしました。本物の八王子山と十二天山は、沿岸防備のために熊本藩が、後に鳥取藩が守りを固める場所になりました。

開港後、十二天の地には遊歩道が通じ、外国人がピクニックや海水浴に訪れるようになりました。

江戸内海西岸海図(部分)

ペリー艦隊日本遠征記 安政元(1854)年
横浜開港資料館所蔵

鳥取藩横浜本牧御固絵図

ペリー艦隊来航時、左上の十二天山から右の八王子山までの本牧海岸を警衛する鳥取藩の陣営図

「甲寅亜夷入津図 全」より抜粋
鳥取県立博物館所蔵

鳥取藩の本牧警固

ペリーの来航時、本牧も江戸を守るための大事な地点として警護を固める所となりました。

鳥取藩松平家を中心に2500人もの武士が集められ主に海岸線に数ヶ所の砲台がつくられ多聞院には本陣がおかれました。

米艦隊神奈川沖碇泊並海岸警固図

日米和親条約締結当日の警固の様子を絵図から見ると、ペリーとの会見場となった図右上の横浜村には小倉藩及び松代藩が、神奈川口には明石藩、本郷本牧村には鳥取藩、北方村より根岸村までに熊本藩を配置した。

神奈川沖の米艦隊は九艘(蒸気船三艘、帆船五艘、運送艦一艘)。横浜村異人応接場へボート(バッテイラ)11艘にて446人が上陸した。

安政元(1854)年
横浜中央図書館所蔵

米人本牧鼻に切り付けたる文字(瓦版)

艦載ボートにより水深を測り、崖に横文字をかいた。

横浜市中央図書館所蔵

フレガツト蒸気船スエスクハンナ

安政6(1859)年
横浜市中央図書館所蔵

横浜風景一覧(部分)

二代歌川広重

文久元(1861)年
神奈川県立歴史博物館所蔵

新鐫横浜全図 MAP OF YPKOHAMA(部分)

明治3(1870)年
横浜開港資料館所蔵

東海道名所之内横浜風景(部分)

五雲亭貞秀

万延元(1860)年
神奈川県立歴史博物館所蔵

写真にみる本牧十二天の地 [明治時代]

十二天の森に抱かれた「十二天社」は、明治初年の神仏分離により、「本牧神社」となりました。神社の隣には茶屋もできました。

変わらず風光明媚な十二天の浜辺は、潮干狩りや海水浴の地でした。明治四十四(1911)年の路面電車の本牧延伸によって住宅も増え、小説家谷崎潤一郎も近くに住んでいました。

仏蘭西

一川芳員

文久元(1861)年
横浜開港資料館所蔵

カメラを抱えるベアト

ジャパン・パンチ

1866年6月号より(部分)
横浜開港資料館所蔵

本牧十二天の鳥居と社殿

十二天社の最も古い写真「F・ベアト幕末日本写真集」より

横浜開港資料館所蔵

本牧神社の鳥居から海上を望む

横浜開港資料館所蔵

本牧神社

関東大震災以前の社殿

横浜開港資料館所蔵

本牧十二天の茶屋

横浜開港資料館所蔵

本牧神社鳥居前より宮原海岸を望む

横浜開港資料館所蔵

本牧神社の参道

横浜開港資料館所蔵

本牧十二天の茶屋

横浜開港資料館所蔵

十二天境内からの眺め

横浜開港資料館所蔵

本牧十二天の本牧神社

有隣堂所蔵

横浜本牧十二天

横浜開港資料館所蔵

本牧十二天の海岸

横浜開港資料館所蔵

村社 本牧神社

「横浜市史稿神社編」口絵

昭和7(1932)年
横浜市中央図書館所蔵

北方村から見る本牧十二天

横浜市開港資料館所蔵

本牧十二天の海岸

横浜市開港資料館所蔵

戦災・接収・街づくり [昭和初期〜現代]

関東大震災後の復興期に多くの人々が移り住み始めた本牧は、第二次世界大戦末期の空襲で焼け野原となり、米軍の接収によって十二天の地は人々の住む地域と隔てられました。

やがて十二天の海も埋立てられました。昭和五十七年(1982)には接収地が返還され、それから新本牧地区の街づくりが始まりました。

昭和39(1964)年

縮尺1:6,000
横浜市地形図(3千分の1)を縮小

本牧十二天
本牧神社

関東大震災後の竣工したばかりの新山下と小港間の市道

小港から十二天方面を望む埋立て前の景色

昭和初期
中図書館編『本牧波瀾の100年』より転載

第二次世界大戦の空爆による本牧の焼け跡

左奥の小高い丘は十二天山、手前は小港町

昭和20(1945)年9月1日
横浜市資料室所蔵

横浜空襲羅災地図

赤く塗られた部分が空爆によって焼けた区域

昭和20(1945)年
横浜開港資料館所蔵

接収中の十二天

十二天山の上部に給水タンクが設置されている

昭和50(1975)年頃
中区役所所蔵

接収中の本牧の米軍住宅

写真上部に十二天、中央部に旧本牧小学校を接収した米軍アメリカンスクール

横浜市中央図書館所蔵

十二天付近より南東部

中央のフェンスを境に、埋立て地につくられた産業道路と芝生の米軍住地

昭和50(1975)年頃

新本牧地区の計画図(部分)

総合的な街づくりを目指し、良好な都市環境づくりがここから始まりました。

土地区画整理事業の計画決定
昭和57(1982)年

埋立前の本牧

十二天山の左は下水処理場、その先に小港団地
本牧十二天

昭和35年頃
横浜市中央図書館所蔵

完成した本牧埠頭

昭和45年頃
本牧十二天

横浜市史資料室所蔵アマノスタジオ撮影

本牧十二天緑地整備図

本牧十二天地が位置する新本牧地区は、接収解除を機に土地区画整理事業による街づくりが地域ぐるみで行われました。

本牧十二天緑地のあらまし

この緑地は、米軍から国に返還された後に、地域の方々から保全のご要望を受け、横浜市が国から土地を無償で借り受けるなどして、平成27(2015)年に都市緑地として公開されました。

もともと海岸線にあった崖や貴重な十二天の森、当時の風景を模した広場で、次世代へ歴史が語り継がれるよう望まれます。

本牧神社のお馬流し [昭和初期〜現代]

本牧神社は由緒書では源頼朝公から厨子が奉納されたとあり平安時代の創建であったことがうかがわれます。

米軍の接収による本牧町二丁目への遷座の後、平成五(1993)年に本牧和田に鎮座されました。茅で作られたお馬さま六体に本牧中の災いを託して海に流す「お馬流し」は、永禄九(1566)年から現在まで続いています。

祭礼船の出船を見送る人々

(昭和初期)

昭和の十二天社頭 奥から原北、原南、新町、八王子の祭礼船

昭和6(1931)年

埋立前最後の木造船によるお馬流しを行った原の人々

昭和38(1963)年

頭上奉戴にてのお馬迎え – ①

お馬さまは扇形の厚い「お馬坂」の上におかれ、頭上から頭上へと渡していきます。

平成26(2014)年

本牧町二丁目の頃の本牧神社、例祭当日のご神前 – ②

お馬さまは神前に奉置され、古式にのっとった神事が行われます。

昭和60(1985)年

お馬流しのため御神殿を出るお馬送り – ③

そろいの浴衣に黒紋付の羽織、白足袋、白鼻緒の草履姿でお馬さまを送ります。

平成26(2014)年

お馬奉戴車による腸内の巡幸供奉 – ④

お馬さまは神殿から祭り船をかたどった車に移され、まちをめぐり漁港へと運ばれます。

平成26(2014)年

本牧漁港でのお馬取り – ⑤

漁港に着くと、お馬さまは供奉車から降ろされ、再びお馬取りが行われます。

平成26(2014)年

お馬さまを「せめ」の後、祭礼船に積み込む – ⑥

お馬取りの行列は一旦止まったあと、船に向かって一気に走り出し、これを「せめ」といいます。

平成26(2014)年

修理復興となった原の木造祭礼船によるお馬流し – ⑦

お馬さまは祭礼船が沖合5kmくらいに来ると、かけ声にあわせて「お馬坂」のうえからすべるように、六体のお馬さまが海に流されます。

平成25(2013)年 神奈川新聞社所蔵

お馬流し

お馬流しは、昔は「十二天社」といわれた海辺の鎮守様である本牧神社に伝わるお祭りで、神奈川県の無形民俗文化財に指定されています。

お馬とは、茅で作られ頭が馬、胴体が亀の形をしています。「本牧六ヶ村」をあげての祭りとして昔から「羽鳥家」で6体のお馬がつくられます。

流したあとの陸に向かっての力漕 – ⑧

災いのもとをあずけたお馬から離れるために、一目散に競漕して岸に戻ります。

平成30(1955)年

浅瀬に近づき櫂さしが始まる – ⑨

岸からの声援に答えるかのように岸近くにもどると両側の櫂を一勢に上げました。

*掲載写真は⑦を除き本牧神社所蔵

編集後記

かなりの大ボリュームになりました。
去年の夏にたしか撮影しに行きました。その日は本牧十二天にある小港南公園グラウンドでの会社のソフトボール試合を素見に……。結果的に案内板の方が印象に残りましたけどね。

相棒に乗っていきました。非常に暑い日だったと思います。

近くの川にいた亀ちゃん。淡水というより海水な位置にある川なんですが、亀って海水でも大丈夫なんですね。

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