星野町公園

こんなところにもあった星野町公園の台場跡案内板

星野町公園
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神奈川台場跡地

神奈川台場跡地案内板御開港横浜之全図

御開港横浜之全図 -横浜開港資料館所蔵-

神奈川台場とは

安政6年(1859年)5月、幕府は伊予松山藩に命じ、勝海舟の設計で台場(砲台)を構築した。

台場は総面積約26,000㎡(約8,000坪)の海に突き出た扇形で、約7万両の費用と工期約1年を要し、万延元年(1860年)6月竣工した。

国交のある国々と礼砲や祝砲を交換するという、当時の国際港としてはなくてはてはならない重要な役割を担った施設である。

明治32年2月に廃止されるまで台場として使われたが、大正10年(1921年)頃から埋め立てられ、現在では、石垣の一部を残すのみとなった。

横浜海岸通之図

横浜海岸通之図 -横浜開港資料館所蔵-

神奈川台場と象の鼻

安政5年(1858年)に米、蘭、露、英、仏と通商条約が結ばれ、翌年(1859年)横浜港が開港する。港には波止場が作られ、そのうちの一つ西波止場(イギリス波止場、後の象の鼻)は、国際航路に乗船した旅客の出入や輸出入品の揚げ下ろしに利用された。

初代の波止場は、2本の並行な形状だったが、慶応2年(1866年)の大火をきかっけに道路などが整備されたのにともない、波止場の延長工事がおこなわれた。

この工事によって、東側の波止場は大きく湾曲し、波除けとして機能するようになった。こうして、のちに「象の鼻」と呼ばれる防波堤が誕生した。

台場と波止場は国際港のもっとも重要な施設で、明治4年(1871年)、岩倉具視を全権大使とした使節団が西洋諸国に出発した際にも、「象の鼻」からはしけに乗船し、神奈川台場からは祝砲が打たれている。

2つの史跡は現在もその遺構が残っているが、横浜市では、平成21年(2009年)開港150周年を記念して、開港当時の歴史を現在に伝えるため、神奈川台場の再整備工事、「象の鼻」の復元工事を行った。

神奈川台場図

神奈川台場図 -横浜開港資料館所蔵-

○丸印で示す箇所で石積みの一部を見ることができます。
○当時の台場の図に現在の道や施設(図中オレンジ色の線)を重ね合わせたものです。

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