横浜地方気象台のすぐ近くにあるブラフ99ガーデンの外に設置されている案内板です。
こちらが横浜地方気象台。緑に囲まれて独特な雰囲気を醸し出しています。
正面から左の方にいかにもブラフ積みな石があります。詳しく見ていきましょう。
山手のブラフ積み
ブラフとは
“ブラフ(BLUFF)”とは“切り立った崖”という意味であり、新山下に面する絶壁状の地形から、外国人居留地の時代より、山手は外国人たちによって「ブラフ」と呼ばれていました。
住所表記でも「BLUFF○○(数字)」のように記され、その番号は山手町の地番としてほぼ引き継がれています。この場所の愛称「BLUFF99GARDEN」は横浜山手の歴史的な呼び名に由来します。
ブラフ積みとは
山手は尾根道としての山手本通り沿いに宅地が展開しているため、宅地の間や宅地と道一路の間に多くの段差があり、造成する際に石積みの擁壁が築かれていきました。
石垣はいずれも棒状(直方体長手3尺[約900mm])房州石を用い、長手面と小口面が一段中に交互に並ぶ積み方をしています。この積み方は、山手のみならず横浜市内、横須賀や東京でも見かけることができますが、横浜山手の特徴的な景観要素になっていることから“ブラフ積み”と呼ばれています。
ブラフ積みの積み方
イギリス海軍病院の入り口(現港の見える丘公園)
横浜開港資料館所蔵
山手の移り変わり
居留地時代の山手
手の谷戸坂上一帯は、幕末から明治にかけて、イギリスとフランスの軍隊の駐屯地となっていました。両国は1863年(文久3)に居留民の保護と防衛を目的として、山手に軍隊を派遣しました。
現在の港の見える丘公園のフランス山地区には仏軍が、港の見える丘公園の一部とゲーテ座から横浜山手聖公会にかけての範囲には英軍(第20連隊)が駐屯しておりトワンテ山と呼ばれていました。(トワンテとは「20」の英語音「トウェンティー」)両国駐屯軍は1875年(明治8)に撤退するまでの12年間、山手の丘にとどまりました。
また、居留地時代には、海外からの文化が山手を彩り、当時の住宅は広い庭に草花やコニファー(形が整えられた樹木)などが植えられ、広い庭に周囲にベランダを廻らせたコロニアル風の建物が多く見られました。
1888年末の横浜地図
で囲われているのが99番地
横浜開港資料館所蔵
山手外国人住宅 明治中期
横浜開港資料館所蔵
山手居留地の洋館 明治中期
横浜開港資料館所蔵
山手町99番地の移り変わり
この地「山手町99番地」は、1871年(明治4)にアメリカ海軍病院用地として貸与されました。明治後期には近代的な病院建築に改築されましたが、1923年(大正12)9月1日の関東大震災により山手は瓦礫の山と化し、アメリカ海軍病院の建物も倒壊しました。
1927年(昭和2)には病院跡地に神奈川県測候所(現横浜地方気象台)が建設され、その後、敷地の一部は横浜税関宿舎の用地として利用されてきました。居留地時代より、病院、測候所、税関宿舎と公の場所として「利用され、現在は横浜市により公園として管理されています。
アメリカ海軍病院
横浜開港資料館所蔵