小机城について
築城の年代は明らかではありませんが、おそらく、このあたりがひらけた十二世紀以降ではないかと思われます。
その頃は、このあたりは上杉氏の勢力下にあり、西方には、その支配下の榎下城があったことから、それとかかわりのある城と思われます。
その後、山内上杉家の家臣長尾景春が、家督争いに端を発して反乱を起こした時、景春に味方した矢野兵庫助らが城に立てこもり、北方の亀之甲山(現在の新羽町亀ノ甲橋付近)に滞陣した上杉方の太田道灌の率いる軍と戦いました。
城は文明十年(一四七八)攻め落とされ、上杉氏もやがて北条早雲に追われ、小田原北条の領地となり、四十年間廃城となっていました。
大永四年(一五二四)一族の北条氏堯の城となり、笠原越前守信為を城代として再興しました。
小机は地理的に、江戸、玉縄、榎下などの諸城を結ぶ位置にあり、この地は依頼軍事、経済の両面で極めて重要な役割を果たすことになります。
豊臣秀吉が小田原城を攻め落とし、やがて小田原北条氏が亡び、四代目城主の弥次平衛重政が徳川家の家臣として二〇〇石の知行を与えられ、近くの台村(緑区台村)に住むことになり、小机城は廃城、その歴史を閉じることになりました。
小机城想定図
小机城の縄張り
半島型の突出た丘陵の上部を大きく平らに削り、一列に三つ程度の曲輪を置き、その並んでいる曲輪の側面に腰、帯曲輪を築きます。
また、城郭全体を二重の土塁を空堀でぐるりとめぐらす縄張りで後北条氏特有の築城法と言えます。
類例より後北条、後半の城築方法で、東京都、埼玉県など戦国期の丘陵城郭の多くがこの型で県下では、茅ヶ崎城も典型といえます。
縄張りと曲輪について
縄張りとは、目的が定まった地が決定した後その広さを決定し、曲輪の配地、道のつけ方、門の開き方、水の便などを定めることであります。
この地取と縄張りを総称して「城取」といい、城取は武士が行いました。
曲輪とは城を構成する区画、すなわち削平された地、それぞれ防備地帯、兵営の場、館の立地される場をいいます。
空堀(からぼり)
堀は土塁と共に城の守備・攻撃の為の重要な施設で、人工的に作られるものや地形を利用したものがあります。
この堀は水をはらない堀で空堀と呼ばれ、水をはる為に堀勾配のゆるい水堀よりも堅固な施設と言えます。
小机城跡が気になりウォーキングしてきました。入口が分かりづらく、住宅街をウロウロすると出てきます。
初めは分からずに反対側の農家さんの道から山登りをしたのですが(ここから入れると看板があったので……)、正規ルートをおすすめします。綺麗に整備された竹林が出迎えてくれます。
綺麗に生い茂っており、まるで場所によってはもののけ姫みたいです。人が居ないので、リフレッシュするには良さそう。
多分この小机城跡で一番目立つ、何もない広場です。本丸が建っていたのでしょうか?
あまりにも地味過ぎて子供も遊びには来ないかな……。その分静かで良い場所かもしれません。