井土ヶ谷事件の跡碑

町の裏路地にある大事件!井土ヶ谷事件の跡

井土ヶ谷事件の跡碑

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横浜市地域史跡 井土ヶ谷事件の跡

井土ヶ谷事件の跡案内板

昭和六十三年十一月一日登錄

井土ヶ谷事件とは生麦事件と同じく外人殺傷事件で、現場の地名をとって仮称したものです。

文久三年九月二日(一八六三年十月十四日)お昼ごろ、井土ヶ谷村字下之前でフランス士官カミュが浪人体のものに殺害されました。

神奈川奉行合原猪三郎は下手人を捜査したが、遂に逮捕することができなかったため、横浜在留の居住外人は幕府を非難し、碇泊の外国軍艦は乗組員の一部を上陸させ、警戒体制を敷きました。山手に外人部隊の駐屯地ができる発端となりました。

幕府はフランス公使ベルクールの示唆によって謝罪使派遣を「横浜鎖港使派遣」の名目で池田筑後守らを任命した。使節は渡仏し謝罪の上、遺族扶助料を与えましたが、鎖港は実現しませんでした。

カミュは事件の翌日、現在の外人墓地に埋葬され、国費で墓碑も建立されました。事件跡は、この場所から東南へ約一町(一〇九m)はなれた現在の南区井土ヶ谷下町三のあたりです。

平成三年三月
横浜市教育委員会

住宅街に溶け込んだ案内板

井土ヶ谷事件の跡風景

生活圏内ということで発見できたような案内板です。
住宅街にある三角州の先端にある案内板で、案内板より車が来ないか確認することに意識がいってしまうような場所です。
今まで2人くらい案内板を眺めている人を見ました。

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井土ヶ谷事件の跡碑
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