
高島山公園には案内板が3つもあったので、追加記事です。
神奈川宿歴史の道はこちらをご覧ください。
横浜市地域史跡 望欣台の碑
平成二年十一月一日登錄所在地横浜市神奈川区高島台五番地の二
望欣台の碑は、横浜の都市形成期における恩人の一人である高島嘉右衛門を顕彰する碑(明治十年建立)です。
嘉右衛門は、高島学校などの洋学校の創設・経営や瓦斯事業、高島町埋立てなどの土木事業のほか、洋館の建築、港座(洋式劇場)の経営など多方面に貢献しました。
港内の繁栄と事業の功績を望み、ひとり欣然として心を癒したということから、この高島台の高台を望欣台ということです。
碑は、現在、高島山公園にありますが、もとは近くの高島邸にあったものです。
碑高 二八五.0センチメートル
碑幅 一五0.0センチメート
碑厚 三0.0センチメートル
平成二十五年三月
横浜市教育委員会
横浜市地域史跡 弁玉歌碑
平成四年十一月一日登錄
寸法
碑高 二四六cm
碑幅 一五三cm
碑厚 一五cm
この碑は、幕末・明治初期にかけて、神奈川宝寺の住職であった歌人弁玉の歌碑兼顕彰碑です。
弁玉は、文政元年(一八一八)江戸浅草俵町に大熊卵八の四男として生まれています。天保元年(一八三○)十三歳で江戸下谷の清徳寺大潮のもとで得度し、下総国飯沼の弘経寺で修業したのち、芝の増上寺に入り、嘉永三年(一八五○)三宝寺の住職に転じ、以後、明治十三年に没するまで神奈川の人となっています。
和歌は、橘守部、岡部東平、普門寺境音などに学んだ。とくに長歌に秀れ、文明開化初期には、石鹸玉、伝信機などの新事物を巧みに捉えて長歌にうたい注目されています。
また、明治10年、横浜の発展に尽した高島嘉衛門の功績を称え建立された「望台碑」の碑文を揮毫し、文明開化期の横浜の発展経路を明確に伝えています。
長歌集「由良牟呂集」は、明治十二年(一八七九)弁玉が没する一年前に門人によって出版されています。文明開化期の横浜の発展を知るうえで貴重な史跡です。
平成五年三月
横浜市教育委員会