弘明寺

横浜最古のお寺はここにあり!弘明寺商店街を抜けて弘明寺観音へ行ってみた

弘明寺

京急弘明寺駅からは駅を出て直ぐ、横浜市営地下鉄弘明寺駅からは、弘明寺商店街を抜けた先にある弘明寺観音です。
弘明寺観音は横浜最古のお寺で、本尊の木造十一面観音立像は、国の重要文化財に指定されています。
春になると、直ぐ近くの大岡川の桜と相まって、参拝される方が増えます。

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弘明寺観音案内板

(国指定重要文化財)
指定 大正4年8月10日

弘明寺は、瑞応山蓮華院と号す真言宗の寺院で寺伝によると、「今を去る1200余年前、元正天皇の養老5年(721)、インドの善無畏三蔵法師が仏教弘通のため、日本渡来の節開創されたお寺で、それより17年後、聖武天皇の天平9年、諸国に悪病流行の際、行基菩薩が勅命により、天下泰平祈願のため全国巡錫の際、当山の霊域を感得し草庵をつくり観音様を彫刻し、安置せられた。」とあります。

鎌倉時代には、源家累代の祈願所とされました。

江戸時代、坂東観音三十三ヵ所の第14番札所として信仰を集め、年に2回の市が立ち、大変賑わいました。

市内には観音道の道標が数基遺っています。

本尊の木造十一面観音立像は、関東に遺る鉈彫りの典型的な作例として有名なものです。(鉈彫り像とは、丸のみの彫り痕を像表面に残した特殊な彫り口の作品をいいます。)

像高181.7cm、ケヤキ材、丸彫り・一木造り、平安時代(11〜12世紀のころ)の作。

造形はかなり荒々しく、かつ粗略なもので、一見未完成作のような印象を受けますが、全身にわたって丸のみの痕を規則的に横縞目に残しており、顔面は肉身や着衣に比べ、極め細かく入念に整えられています。

彩色は僅かに本面の唇と化仏の唇に朱を点じ、眉目・口ヒゲ・胸飾を墨で描いています。境内には、善無畏三蔵法師が陀羅尼を書写し、結界を立てた霊石と伝える「七つ石」、尾りょ石と刻してある「尾閭石」、大黒天の袋に似ているので名付けたという「福石」があります。

横浜市教育委員会文化財課
社団法人 横浜国際観光協会
平成9年3月

木造黒漆花瓶案内板
木造黒漆花瓶

木造黒漆花瓶

昭和六十三年十一月一日指定
所有者 宗教法人 弘明寺

(Ⅰ)総高六九・三 口径二八・八 胴径二〇.〇 底径二〇・五 台方二八・七センチメートル
(Ⅱ)総高五七〇・〇 口径二九・六 胴径三〇・四 底径二二・三 台方二八・七センチメートル

この花瓶は、「亜」という字の形をしている。

欅材をろくろで挽いて成型した四つの部分を組み立てたものである。

開口部はラッパのような形をしているが、その内に円形板をはめ込み、板の面に五つの孔をあける。そこに五色の造花を挿したのである。

黒漆を全面に塗装しており、胴部に天正十八年(一五九〇)に修理した旨の朱漆銘がしるされているが、しかし、それより以前の制作年代であることは、その形式が鎌倉時代形式であることからわかる。

この花瓶は、木造で大型の花瓶であるという他に類例をみない珍しさがあり、また、大きいものであるから置く規模も大きい寺であったと推定される。

したがって、花瓶が制作された当時の弘明寺の伽藍が大規模なものであったと想像される。

平成元年三月
横浜市教育委員会

横浜市指定有形文化財(工芸) 弘明寺梵鐘

寛政十年戊午年五月吉辰、東都神田住冶工西村和泉守藤原政平の刻銘がある

指定年月日 平成九年十一月四日

所有者 宗教法人 弘明寺
所在地 南区弘明寺町二六七番地
時代 江戸時代

本梵鐘は鋳銅製の和鐘で、盛り上がった頭部、太い区画線、低い撞座の位置、前に突き出した口録といった江戸時代に製作された梵鐘がもつ共通の造形からなっています。

江戸神田に住む西村和泉守藤原政平という鋳物師の作で、川崎市平間寺(川崎大師)の梵鐘も同人の作です。

西村家は江戸元禄期頃から大正初期まで十一代続いた鋳工の名家で、江戸幕府の鋳物製作の御用を勤めた家柄です。

銘文によると、当鐘は、江戸中期の寛政十年(一七九八)に阿闍梨秀光が願主になって再々造したものであり、追銘に弘明寺には過去二口の梵鐘があったとあります。

本梵鐘は、奉造された寺院に連綿と伝わる、資料的な価値が高い貴重なものです。

横浜市教育委員会

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弘明寺の直ぐ近くに梅鉢流まみいという、めちゃくちゃ美味しいたこ焼き大判焼きのお店があります。
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