- 2020年6月1日
- 2020年9月14日
石鹸工場も横浜発祥!日本最初の石鹸工場発祥の地、堤久右衛門忘酸製造所跡
堤磯右衛門は、磯子村の村役人を務める旧家の出身で、明治初期の横浜の実業家でした。磯右衛門は、明治六年(一八七三)三月、横浜三吉町四丁目(現・南区万世町二丁目二五番地付近)で日本最初の石鹸製造所を創業、同年七月洗濯石鹸、翌年には化粧石鹸の製造に成功しました。
堤磯右衛門は、磯子村の村役人を務める旧家の出身で、明治初期の横浜の実業家でした。磯右衛門は、明治六年(一八七三)三月、横浜三吉町四丁目(現・南区万世町二丁目二五番地付近)で日本最初の石鹸製造所を創業、同年七月洗濯石鹸、翌年には化粧石鹸の製造に成功しました。
この結合方式のトラスは、明治中・後期にしか見られないもので、わが国に残されている最古のピン結合トラス式の道路橋として、大変貴重な存在です。今から約100年前の明治26年、神奈川県の土木技師・野口嘉茂の設計により、中村川下流の「西の橋」がトラス鉄橋に改築されました。
日本最初の関帝廟。三国志で有名な関羽(かんう)が祀られています。関羽は中国後漢末期に活躍した武将で、蜀が誇る五虎大将軍の筆頭でした。関聖帝君と言う名で神格化されています。
旧露亜銀行横浜支店は、大正10年当初、英国人バーナード・M・ウォードの設計により建設され、大正12年、関東大震「災による外壁損傷をうけ、復旧を経た後、ドイツ領事館、アメリカ銀行、横浜入国管理事務所等として平成8年まで使用されてきた。
この貯水槽は、明治4(1871)年から明治32(1899)年までここを本拠地とした居留地消防隊(Yokohama Fire Brigade)の防火貯水槽として建造されたものです。この地に居留地時代から100年以上も良好に保存され、昭和47(1972)年まで使用されました。
新コは明治十七年、この土地、日の出町の大岡川にかかる黄金橋のたもとで生まれた。生家『駿河屋』はヨコハマ市街地建設のため野州から移住してきた請負業である。新コはこの地で関八州の渡り職人衆から渡世の礼儀を学び、また神奈川県自由民権運動の魁、相州真土村騒動の指導者たちから、民衆の側に立って闘う男の姿を学んだ。
かつてこの付近には「ハマのドック」の名で親しまれた横浜船渠(せんきょ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)の正門があり、数多くの人がこの場所を行き来しました。貨新線の「みつびしどっく踏切」という踏切名称にその名残を見ることができます。みなとみらい21地区には横浜船渠会社の遺構として、日本丸メモリアルパーク(第一号ドック)、ドックヤードガーデン(第二号ドック)などが残されています。
江戸時代、現在の桜木町やみなとみらい21地区、横浜駅周辺はすべて海でした。安政6(1859)年、東海道と開港場をつなぐ横浜道が野毛の山を切り開いて築かれ、戸部の高台には神奈川奉行所が設けられるなど戸部・野毛の丘は開港期の横浜の発展を担う日本人の拠点となりました。
慶長6年(1601)、東海道に宿駅・伝馬の制が定められたとき、市域では神奈川、保土ケ谷の二宿(戸塚宿はその後の設置。)が設けられました。神奈川宿には、滝の橋をはさんで、東海道沿いに東の神奈川町、西の青木町に本陣を置き、神奈川町は名主石井家(源左衛門)、青木町は鈴木家(源太左衛門)が宿役人として任命されました。
京急弘明寺駅からは駅を出て直ぐ、横浜市営地下鉄弘明寺駅からは、弘明寺商店街を抜けた先にある弘明寺観音です。 弘明寺観音は横浜最古のお寺で、本尊の木造十一面観音立像は、国の重要文化財に指定されています。 春になると、直ぐ近くの大岡川の桜と相ま […]