- 2020年5月17日
- 2021年2月5日
洲崎大神の案内板【神奈川宿歴史の道その13】
洲崎大神は、建久二年(一一九一)、源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祠ったことに始まると伝えられている。
洲崎大神は、建久二年(一一九一)、源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祠ったことに始まると伝えられている。
普門寺は、洲崎山と号し、真言宗智山派に属す。山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことより起こった。また、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝えられている。
甚行寺は、真色山と号し、浄土真宗高田派に属す。明暦二年(一六五六)第一世意圓上人が本山専修寺の第一四世鶏秀上人を招いて、この寺を草創したと伝えられる。
東海道五十三次の日本橋よりかぞえて三番目が神奈川宿である。この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。上図は、江戸幕府の道中奉行が作った『東海道延絵図』である。図の中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。折れ曲がったあたりが台町である。
本覺寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(一五三二)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。
三宝寺は、瑠璃光山と号し、浄土宗に属す。慶長二年(一五九七)に叙した嘆誉和尚の草創である。弘法大師の作と伝えられる薬師如来立像を本尊としていたが、関東大地震で被害を受け、第二次大戦で焼失した。現在の本尊は、その後、東京芝の大本山増上寺より遷座したものである。
明治初年に当地付近から横浜駅西口・高島町方面を写した写真である。青木町から野毛浦まで弓なりに延びる埋立地が高島嘉右衛門が請負った鉄道用地である。湾の付け根をショートカットして、鉄道を通した様子がよくわかる。今は横浜一の繁華街である西口あたりは、当時は海の中であった。
望欣台の碑は、横浜の都市形成期における恩人の一人である高島嘉右衛門を顕彰する碑(明治十年建立)です。嘉右衛門は、高島学校などの洋学校の創設・経営や瓦斯事業、高島町埋立てなどの土木事業のほか、洋館の建築、港座(洋式劇場)の経営など多方面に貢献しました。
この丘は、高島山と呼ばれている。高島嘉右衛門が別邸を営んだためにこう呼ばれるようになった。鉄道用地埋立などの事業の後、嘉右衛門がこの丘に閑室を設け港内の繁栄と事業の功績を望み、欣然として心を慰したことから望欣台と名付けられた。
嘉右衛門は、天保三年(一八三二)、江戸に材木商の子として生まれ、開港後の横浜で成功を収めた。明治二年、政府は新橋・横浜間(現在の汐留・桜木町間)の鉄道建設を計画する。現在の横浜駅から桜木町にかけての一帯は、当時海で、鉄道を通すため、青木町から野毛にかけて、全長千四百㍍、幅七十六㍍の築堤を造らなければならなかった。