- 2020年5月24日
- 2020年7月11日
短命幻の2代目横浜駅はマンションの敷地内にあった
東海道本線は大正3(1914)年の東京駅開業に伴い、東京駅を「起点とした運行を開始します。これに続いて、大正4(1915)年に、初代横浜駅(現、桜木町駅)が高島町交差点に移転し、2代目横浜駅として開業します。
東海道本線は大正3(1914)年の東京駅開業に伴い、東京駅を「起点とした運行を開始します。これに続いて、大正4(1915)年に、初代横浜駅(現、桜木町駅)が高島町交差点に移転し、2代目横浜駅として開業します。
明治24(1891)年には横浜船渠(せんきょ)会社(後の三菱重工業横浜造船所)が設立され、現在のみなとみらい21地区には第一号ドック(明治31(1898)年竣工)、第二号ドック(明治30(1897)年竣工)をはじめとして、本格的な船舶修理設備が整えられていきます。
シンプルな外観ながら、壁面を覆うタイルの多様な張り方を主たる意匠とするアール・デコ特有のスタイルを示す。特に壁面頂部の表現は典型的なものである。現在も民間のオフィス・ビルとして使用され、馬車道の歴史的景観を構成する貴重な建物である。
「キーケン」の名で親しまれていた建物。耐震耐久性の問題から解体されたが、極力創建当時の状態に復元し、新築、再生を図った。震災復興期の建築としては最大規模を誇り、横浜ゆかりの建築家 遠藤於菟の晩年の大作である。
安政6年(1859年)6月横浜開港以降、「関内」地区は神奈川運上所(現神奈川県本庁舎の位置)の東側を外国人居留地、西側を日本人居住地としていた。この地は古くは久良岐郡横浜村といい、安政6年(1859年)の横浜開港に際して新設され「海辺通」と町名を付けられた。その後、明治4年(1871年)4月にこの地先の海岸を埋め立て、その地を「海岸通」とされたため、元の「海辺通」は「元浜町」と改称された。
新しいバイクに交通安全お守りをと思い、病院のついでに桜木町にある伊勢山皇大神宮へ行ってきました。 コロナということもあり境内には人は殆ど居なく、とても広々としていました。 近くにある成田山横浜別院へは、小さい頃に何度も池の亀を見に行っていた […]
赤レンガ倉庫は、東洋で初めて築造された近代ふ頭である「新港ふ頭」に、輸出入される貨物を税関が管理する倉庫として、国(大蔵省)によって建設されたもので、耐震・耐火構造を採用した当時最新鋭の倉庫でした。創建時から戦前までは横浜税関が管理し、葉煙草、羊毛、光学機器などの輸入品を取扱っていましたが、戦時中は陸海軍の輸送司令部が管理し、戦後は米軍の港湾司令部として使用されました。
この大砲は、旧山下居留地90番(現在の横浜市中区山下町90番地)地中から、昭和34年にオランダ製の11ポンド砲とともに出土した帝政・シア製の32ポンド砲です。出土地では、かつてスイスの商社シーベル・ブレンワルト商会(慶応元・1865年創立)が営業していました。
設計者の矢部又吉は横浜生まれでドイツに学んだ建築家で、隣の旧横浜正金銀行本店の設計者妻木頼黄の弟子。ファサード2面を残して機能更新を図った今の建物は、歴史的建造物の保存・再生の一手法を示した先駆的作品である。
牛馬飲水槽は大正六年、当時横浜の陸上交通の主力であった牛馬のために神奈川県動物愛護協会の前身である日本人道会と横浜荷馬協会が現在の横浜市磯子区八幡橋際に設けたものです。このほか中区の生糸検査所、西区高島町駅前、久保山のガードそばに設置し牛馬の途中休憩所としました。