- 2020年6月2日
- 2020年9月14日
何気ない坂にも歴史あり、元町商店街の汐汲坂
汐汲坂の名は、昔、坂の上の住人が塩をつくるため海水を汲みにきたことに由来するといわれる。坂の登り口には古くから阿弥陀堂があって、明治初期、そこに三到学舎という学舎(まなびや)がつくられた。これが後に山手の明衛学舎と合併して元街学校となる。
汐汲坂の名は、昔、坂の上の住人が塩をつくるため海水を汲みにきたことに由来するといわれる。坂の登り口には古くから阿弥陀堂があって、明治初期、そこに三到学舎という学舎(まなびや)がつくられた。これが後に山手の明衛学舎と合併して元街学校となる。
先月、コロナの影響で在宅が多かったので、溜まりに溜まっていた写真を更新し、当ブログも100記事に突入しました。ガジェット好きな管理人と一緒に街歩きを手伝ってくれていた相棒を紹介していきたいと思います。
ここに展示してある2枚の瓦は、日本初の西洋瓦として元町の地で製造されたものの一部です。美しいレリーフで飾ったこのフランス瓦はその製造者であるフランス人技師アルフレッド・ジェラール(Alfred Gérard)にちなんで「ジェラール瓦」と呼ばれています。
当神社は、今から約七〇〇年前より元横浜洲干島に鎮座していました清水弁天、洲干弁天を、元禄年間に合祀し、元町一丁目の増徳院仮殿に御神体を奉安していました。しかし明治維新の神佛混淆の禁止により増徳院から分離し、嚴島神社(いつくしまじんじゃ)として元町一丁目十五番地に社殿を造営、元町の鎮守様となりました。
堤磯右衛門は、磯子村の村役人を務める旧家の出身で、明治初期の横浜の実業家でした。磯右衛門は、明治六年(一八七三)三月、横浜三吉町四丁目(現・南区万世町二丁目二五番地付近)で日本最初の石鹸製造所を創業、同年七月洗濯石鹸、翌年には化粧石鹸の製造に成功しました。
この結合方式のトラスは、明治中・後期にしか見られないもので、わが国に残されている最古のピン結合トラス式の道路橋として、大変貴重な存在です。今から約100年前の明治26年、神奈川県の土木技師・野口嘉茂の設計により、中村川下流の「西の橋」がトラス鉄橋に改築されました。
日本最初の関帝廟。三国志で有名な関羽(かんう)が祀られています。関羽は中国後漢末期に活躍した武将で、蜀が誇る五虎大将軍の筆頭でした。関聖帝君と言う名で神格化されています。
旧露亜銀行横浜支店は、大正10年当初、英国人バーナード・M・ウォードの設計により建設され、大正12年、関東大震「災による外壁損傷をうけ、復旧を経た後、ドイツ領事館、アメリカ銀行、横浜入国管理事務所等として平成8年まで使用されてきた。
この貯水槽は、明治4(1871)年から明治32(1899)年までここを本拠地とした居留地消防隊(Yokohama Fire Brigade)の防火貯水槽として建造されたものです。この地に居留地時代から100年以上も良好に保存され、昭和47(1972)年まで使用されました。
新コは明治十七年、この土地、日の出町の大岡川にかかる黄金橋のたもとで生まれた。生家『駿河屋』はヨコハマ市街地建設のため野州から移住してきた請負業である。新コはこの地で関八州の渡り職人衆から渡世の礼儀を学び、また神奈川県自由民権運動の魁、相州真土村騒動の指導者たちから、民衆の側に立って闘う男の姿を学んだ。